CONTENT JUMP

Kim Koo Museum & Library

A history museum that focuses on the modern history of Korea
Home > 白凡金九> 私の念願

MY DESIRE

政治理念

わたしの政治理念は、一言で表わせば「自由」である。われわれが建てる国は、自由の国でなければならない。
自由とは何か? もし、絶対的に、個々人それぞれが自分の思うとおりに暮すことをもって「自由」というとすれば、それは、国家が発生する前か、かのレーニンのいうような国家が消滅したあとにしかありえないものとなる。国家生活をしている人類には、このような無条件の自由はない。なぜなら、国家とは、一種の規範による束縛だからである。国家生活をしているわれわれを束縛するものは法である。個人の生活が国家の法に束縛されることは、自由のある国においても、自由のない国においても、同様だ。自由と自由でないこととの分かれ目が生ずる理由は、個人の自由を束縛する法がどこに由来するかということにかかっている。自由のある国の法は国民の自由な意志に由来し、自由のない国の法は国民のうちのある一個人または一階級に由來する。一個人に由来する場合を専制または独裁といい、一階級に由来する場合を階級独裁といい、ファッショと通称している。

わたしは、わが国が独裁の国となることを望まない。独裁の国家では、政権に参与する一階級を除いて、ほかの国民は奴隸になってしまうのである。
独裁の中でももっとも恐ろしい独裁は、なんらかの主義すなわち哲学を基礎とした階級独裁である。君主やそのほか個人の独裁者による独裁は、その個人さえ除かれてしまえばそれまでだが、多数の個人によって組織された一階級が独裁の主体である場合には、これを除くことはたいへんにむずかしいことである。そのような独裁は、それよりもさらに大きな組織の力によるか、そうでなければ国際的圧力によるのでなければ、これを倒すことはむずかしいのである。わが国の ヤンバン兩班 政治も、一種の階級独裁だったが、これは数百年間続いた。イタだが、あらゆる階級独裁のうちでも、もっとも恐ろしいのは、哲学を基礎とした階級独裁である。

数百年間にわたって朝鮮王朝に行われてきた階級独裁は、儒教、そのうちでも朱子学派の哲学を基礎としたもので、たんに政治面のみにおける独裁であったばかりでなく、思想、学問、社会生活、家庭生活、個人生活までを規定する独裁であった。この独裁政治のもとで、わが民族の文化は消滅させられ、精神はぜんめつさせられてしまったのである。



朱子学以外の学問は発達しえず、そのことの影響は、芸術、経済、産業の分野にまで及んだ。わが国を亡ぼし、民力をおとろえさせるにいった最大の原因は、実にここにあった。なぜなら、たとえ国民の頭脳中に、いかによい思想や抱負経綸が生まれても、その人が執権階級の人でないかぎり、またそれが「斯文亂賊」という範囲に属さないものでないかぎり、世上に発表することができなかったからである。このために、芽を開こうとして押しつぶされて死んでしまった新思想、芽の出ないうちに踏みつぶされてしまった抱負経綸が、どれほど多かったことだろうか? 言論の自由がいかに重要なものかということを、痛感せざるをえない。ただ言論の自由がある国にのみ、進歩があるのである。

いま共産党が主張しているソ連式民主主義というものは、これらの独裁政治のうちでももっとも徹底したものであり、独裁政治のあらゆる特長を、極端なかたちで発揮している。すなわち、ヘーゲルを承けた辨証法、フォイエルバッハの唯物論、この二種類にアダム?スミスの勞働価値論を加味したマルクスの学説を最後の哲学と信じ、共産党とソ連の法律と軍隊と警察の力を一つに合わせて、マルクスの学説に一点一画たりとも反対することを許さないどころか、批判することすらきびしく禁じ、これにそむく者には死の粛清をもって対するのである。それは、朝鮮の音の「斯文亂賊」に対する抑圧以上である。万一、このような政治が世界中に拡がるならば、全人類の思想はマルクス主義一つに統一されることになるが、かりにそのように統一され、それが不幸にも誤った理論であった場合には、人類の不幸これにすぐるものはないことになるのである。ところで、マルクスの学説の基礎をなすヘーゲルの辨証法の理論は、すでに多くの学者の批判によって、全面的真理ではないことが知られるようになっているではないか。自然界の変遷が辨証法によるのでないことは、ニュートン、アインシュタインら多くの科学者の学説を見ても明らかである。

したがって、ある一つの学説を標準として国民の思想を束縛することは、ある一つの宗教を国教と定めて国民の信仰を強制することと同様に、正しくないのである。山に一種類の木だけが生えることはなく、野に一種類の花ばかり咲くこともない。いろいろな木が混然と調和して、偉大な山林の美が形作られ、白花が亂れ咲いて、春の野のはなやかな風景が形作られるのだ。われわれがうち建てる国では、儒教も盛んであれば、仏教もイエス教も自由に発達し、また、哲学の面でも、人類の偉大な思想がすべて入って來て花開き、実を結ぶようにしなければならない。そうしてこそはじめて、自由の国ということができよう。このような自由の国においてのみ、人類のもっとも偉大でもっとも高度の文化が発生するであろう。

わたしは、老子の無為の説をそのまま信じる者ではないが、政治において過度に人工を加えることは、正しくないと考えるものである。およそ人というものは全知全能でありえず、学説というものも完全無欠なものではありえないのだから、一人の人間の考え、一つの学説の原理によって国民を統制することは、一時の急速な進歩をもたらすようにみえても、けっきょくは弊害を生み、それこそ辨証法的に暴力の革命をよびおこすことになるのである。およそ生物にはすべて、環境に順応して自己を保存する本能があるのだから、もっともよいことは、そのあるがままに任せておくことだ。こざかしい知恵をもってやたらにいじくりまわすことは、益よりも害が多い。個人の生活にあまりこまかく干渉する政治は、けっしてよい政治でないのだ。国民は、軍隊の兵丁でもなければ、監獄の囚人でもないのである。一人または数人の号令によって人を引っぱっていくのがきわめて不自然で危険なことであることは、ファシスト?イタリアとナチス?ドイツが、不幸にももっともよく証明しているではないか? アメリカでは、このような独裁国に比べれば、はなはだ統一されておらず、ことを進めるのが遅いように見えながら、結果においては、もっとも偉大な力を発揮しているが、それは、その国の民主主義政治の效果なのである。なにかの問題を相談するとき、はじめは民衆がそれぞれ自己の意見を発表して けんけん喧々 ごうごう、その帰一するところを知らぬように見えながら、 こうろんおっぱく甲論乙駁 、互いには討論しあっている間に意見がしだいに整理されていきこのように、民主主義とは、国民の意志がどこにあるかを見出すための、ひとつの手続きないし方式にすぎないのであって、その内容ではない。つまり、言論の自由、投票の自由、多数決への服従、この三つこそが、民主主義の基本なのである。国論すなわち国民の意志の内容は、その時々の国民の中での言論戦によって決定されるのであって、ある一個人ないし党派の特定の哲学的理論に左右されるものではない。この点が、アメリカ式民主主義の特長なのである。

いいかえれば、言論、投票、多数決への服従という手続きを踏みさえすれば、どんな哲学に基づく法律ないし政策でも作れるのであって、これを制約するのは、ただ憲法の条文だけなのである。しかも、その憲法も、けっして独裁国のそれのごとく、神聖不可侵のものではなく、民主主義の手続きをへて改正することができるものなのだ。このようであってこそ、民主、すなわち民衆が国家の主権者だといいうる。

このような国家において国論を動かそうとするなら、その内部のある一個人ないし党派を動かしてもだめなのであって、その国の国民の意見を動かしてこそ、はじめて国論を動かすことができるのだ。そして、民衆の意見というものは、小さな問題においては利害関係によって決定されるだろうが、重大な問題においては、けっきょく、その国民性と信仰と哲学によって決定される。ここからして、文化と教育の重要性が生じるのだ。国民性を保存し、また修正して向上させるのは、文化と教育の力であり、産業の向上も、文化と教育によって決定づけられるところが大きいのである。教育とは、けっしてたんに生活の技術を教えることだけを意味するものではない。教育の基礎をなすものは、宇宙と人生と政治についての哲学である。一定の哲学に基礎をおいて一定の生活の技術を教えるのが、国民教育にほかならないのである。したがって、よき民主主義政治は、よき教育から始められねばならないであろう。健全な哲学の基礎の上に立たない知識と技術の教育は、それを受ける個人とその個人が属する国家にとって有害である。さらに、人類全体にとっても同様なのである。

以上述べたところによって、わたしの政治理念の大綱は推察されうるだろう。わたしは、いかなる意味においても、独裁政治を排撃する。わたしは、わが同胞に向かって叫ぶ! 「けっして、けっして、独裁政治ができぬように注意せよ」と。「わが同胞各個人がじゅうぶんに言論の自由を享有し、国民全体の意見に従って政治がなされるような、そういう国家を建設しよう」と。「一部の党派ないしある一階級の哲学を、それ以外の多数の人々に強制するようなことがなく、また現在のわれわれの理論によって、われわれの子孫の思想と信仰の自由を束縛するようなこともない国家、天地のごとく寛容で自由な国家、そして、そうでありながら、愛の道徳と法の秩序が、あたかも宇宙、自然の法則のごとくに守られているような、そうした国家として、われわれの国家を建設しよう」と。

しかし、そうかといってわたしは、「アメリカの民主主義制度をそのまま直訳せよ」といっているのではない。ただ、ソ連の独裁的「民主主義」と対比して、アメリカの言論の自由のある 民主主義の価値を判断したにすぎないのだ。両者のうちから一つを選ぶとすれば、思想と言論の自由を基礎とするものを取るということなのである。

わたしは、アメリカの民主主義の政治制度が、それ以上はない完成されたものだとは、必ずしも考えていない。人生のどの側面もがすべてそうであるように、政治形態においても、無限の創造的進化があるであろう。まして、わが国のように半万年(五千年)來、さまざまな国家形態を経験して來た国には、欠点も少なくはないだろうが、また精巧に発達させられている政治制度もなくはないであろう。たとえば、比較的今に近い李朝時代のものを挙げても、 ホンムン弘文 グァン館 (国家的権威を与えられたアカデミー)、 サガン司諫 ウォン院 (国王の政治に対して諫言する責任を負う機関)、 サ ホン ブ司憲府 (国政に対する特別監察機関)などは、国民中の賢人の意見を国アムヘンオ サ暗行御史 (中央から秘密に特派され微行して地方行政を監察して回る官職このように、よその国のよいものを取り入れ、わが国のよいものを選び分けて用いることによって、わが国独特のよい制度を創り出すことは、世界の文運の発展に寄与することなのである。