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Kim Koo Museum & Library

A history museum that focuses on the modern history of Korea
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Exhibition Hall 2F

大韓民国臨時政府の活動 (1919∼1932)

一九一九年、三一運動が起ると、金九は中国の上海へ亡命し、大韓民国臨時政府の活動に参加した。
一九一九年には臨時政府警務局長、一九二二年には内務総長、一九二六年には国務領に選出された。 彼は一九二七年には臨時政府の組織を改組し、米国に住んでいる同胞に手紙を出して臨時政府への支持を呼び掛けた。
こうした努力によって活動資金を工面した金九は、韓人愛国団を組織し、一九三二年、李奉昌․尹奉吉の義挙を指揮した。

金九の家族

一九一九年、上海に亡命した金九は一人で生活していたが、九二⃝年には妻と長男の仁(イン)が、一九二二年には母親が上海に来て、ようやくあたたかい家庭をつくった。また一九二二年には次男の信(シン)が生まれた。しかし一九二四年一月に妻が死亡した。そして一九二五年には母親と信が、二年後には長男の仁も帰国して、再び金九は一人暮らしとなった。

白凡逸志の作成経緯

臨時政府の国務領になった金九は、一九二八年から『白凡逸志』を書きはじめた。この逸志には、日本帝国主義の侵略に立ち向かって最小の犠牲で最大の効果が得られる義烈闘争を決心し、政国にいる二人の息子に遺書を残すという覚悟で、家門の来歴や自分が歩んで来た道を記録した。

韓人愛国団

金九は一九三一年、韓人愛国団を創設した。臨時政府から全権を委任され、国内外に団員を派遣して日本の要人暗殺と朝鮮総督府の植民統治機構の爆破を計画した。代表的なものに、一九三二年一月、日本の東京で天皇に爆弾を投げた李奉昌の義挙、同年四月、上海の虹口公園で上海駐屯の日本軍司令官白川義則大将等の日本の要人を爆殺した尹奉吉の義挙があった。
韓人愛国団の活動は、我民族に対して独立できるという信念と勇気を与え、韓国人が国の独立を熱望しているということを全世界に知らせる契機となった。